巫女の墓 コスモス揺らす 残暑風

国道の端に建つ、気温板のデジタル表示が29℃を示している。
車を走らせていると、所々に咲いているコスモスが、夏の名残の暑い風に揺れている。
窓から入ってくる、コスモスを揺らす同じ風に耐えられなくなり窓を閉めると、エアコンの冷房スイッチを入れた。
閉め切った車内の中にも、夏の終わりを惜しむような蝉の鳴き声が聞こえてくる。
夏と共に終わる短い命を燃え尽きさせているようだ。
(それに比べこの俺は…)と、ルームミラーに映る冴えない顔の中年男は思う。

国道18号、赤玉強制半固。
信号待ちの女子高生の翻るスカートに、そんな感傷的な思いも吹き飛んだ。
(現金なものだ)と苦笑しながら、横断歩道を渡る女子高生を目で追う。
彼女の肢体からは若さが溢れている。その若さは、将来に色々な夢を持てるのだ。
(俺にもそんな時分があったんだろうな)

今日の仕事は予定を終えたので、少し寄り道してから会社に戻る事にした。
まさか先ほどの美人女子高生に「巫女」の姿をみたわけではないが、今、信濃毎日新聞に連載されている『真田三代』に「ののう」が出てくる。その里が東御市の祢津らしい。それほど遠くはないので行ってみる事にした。
「ののう」は「歩き巫女」とも言う。

「歩き巫女」について、それを説明するブログではないので、詳しくは各自ネットで検索して頂くとして、それでも物臭なかたに説明しておくと、「歩き巫女」は各地を巡って巫女の仕事をしていた者で、武田信玄がその特性を利用して各地の情報収集にあたらせる諜報部員として養成したとされる。
その養成所が現在の東御市祢津にあったらしい。
そして歩き巫女たちを束ねる巫女頭が、信州望月城主の未亡人、千代女であった。
千代女は、前述の『真田三代』にもさっそく登場している。

巫女というと、メイドと並び現代の萌え系を思い浮かべてしまうが、時には城主と懇ろになって、ハニートラップにより情報を聞き出したり寝首をかいたりすることもあった為、養成所には「美少女」が集められた(?)
と言う訳で、『水戸黄門』の「お娟」や『真田太平記』の「お江」のような忍者を想像するが、黒装束で戦闘するわけではないらしい。

浅間サンラインと平行に走る道を10分ほど行くと、祢津地区に着く。
祢津には数々の史跡があって、その中でも有名なのは「歌舞伎舞台」だろう。それについては別に改めて記すとするが、毎年町民による歌舞伎の催しで賑わう。

祢津小を過ぎ、道の突き当たりに祢津地区の名所を示す看板がある。その二番目に「巫女の墓」が記されていた。

浅間サンラインと平行に走るこの道は、上田以北に出掛ける時によく利用している道だ。その道沿いに、「巫女の墓」があったとは気が付かなかった。
もっとも、墓は道より高い所にあるので、車で通り過ぎるだけではわからない。
おそらく、歴女や戦国ブーム、ドラマや新聞連載の影響で、今までは通り過ぎても気が付かなかったこの場所が、「歌舞伎舞台」以上に注目されるだろう。

祢津小学校のグランドに接する道に、「祢津小学校前」のバス停がある。そこから道を挟んだ向かいに「巫女の墓」はある。



道から背丈くらいの高い敷地の小さな木の下に、小さな墓石がいくつも肩を寄せ合うように並んでいた。
これらが巫女の墓だというのは、墓石に「○○○○巫女」とか「○○○○神女」、「○○○○社女」と彫られた改名でわかる。
墓石の年号を見ると、寛政や天保とあった。
寛政と天保の間は約5、60年。確かに巫女たちが生きていたのだ。

狭い敷地には季節の花が咲き、僕には名前のわからない群れになったピンクの花が印象的だった。その花が、この地で歩き巫女の修行をつんでいた女性たちと重なった。
僕は遠景から一枚、携帯で写真を撮った。本当はもっとわかるように、近くから写真を撮ろうと思ったけど、何だかひとりひとりにカメラを向けるようで気がひけたからだ。

車に戻ると残暑の日差しが、車のボンネットを熱くしていた。




巫女の墓 コスモス揺らす 残暑風
(残暑の日、季節の花に囲まれた歩き巫女の墓の前にて)

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2009年09月06日 Posted by Le musicastre at 01:26Comments(2)東御

廃線路 縁切り地蔵 今もなお

小鳥電車の終点、島川原に三体の地蔵を見つけた。
「縁切り地蔵」と案内がある。
左側が縁切り地蔵で右側が縁結び地蔵だ。相反する二体が一所にあるのは珍しい。
縁切り地蔵には鋏が供えてあった。鋏を供えて願をかけるのは女性であろうか…。



東御市教育委員会によって設置されている案内板にはこう書かれている。
『この地蔵様に輪に結んだ元結をあげてお願いすれば、どんな縁も切れてしまうといわれ、また近くにめでたい結婚式でもあると、わざわざ地蔵様の頭に風呂敷をかけて見えないようにしたといわれている』

小諸に住む人でさえ鉄道が走っていたこと知らない今、おそらく当時からあったであろうこの三体のお地蔵様だけが、わずか6年で幕を閉じた鉄道の歴史を見守ってきたんだろう。

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2008年04月22日 Posted by Le musicastre at 21:58Comments(0)東御

朝風呂は 百円のお得 御牧の湯

家族の者は出掛けていて、自分ひとりで過ごす休日の朝。
せっかくの誰にも邪魔されない休日を楽しもうと思って、この間行った温泉の朝風呂でさっぱりしてから一日を始めようと家を出た。確か朝七時からの営業だった筈だ。

自宅から約十分程でそこに着く。しかし入り口に大きな張り紙が。
見ると、改修工事の為、外来の客は入れないらしい。それほど新しくない鄙びた感じや泉質が好きだったので残念だったが、思い直して別の温泉に行く事にした。
(さて、どこにしよう)と思案。別所は安いがここからだとちょっと遠い。アミューズメントのある大きな温泉施設に行くのは、朝風呂としては大げさだ。考えながら数分車を走らせた右手に「御牧の湯」があった。
(ああ、そうだ。ここにもあった)
この温泉沿いの道はよく通るが、ここには来た事はなかった。
(いい機会だ、ここにしよう)と車を駐車場に停める。

朝風呂の時間帯は朝七時から九時半となっていた。車の中に入れっぱなしのお風呂グッズを持って入り口を入る。案内によると、入浴料は通常四百円らしいが、朝風呂は百円安い三百円だ。ちょっと得した気分。昨日は少し夜更かししたが、それでも『早起きは三文の得』が百円の得になった。

格子戸の入り口を入ると(概観は木造作り風だ)今時の近代的な温泉施設で、お風呂以外には大広間や休憩室もあるらしい。別棟で食事処と地元の特産品などを販売する売店などがある。ここは「道の駅」の施設と併用した温泉なのである。



券売機で券を買い受付に渡す。今の温泉施設はほとんどこういった形である。受付の近くにある内風呂は明るく清潔な感じの浴場だ。浴場に入ると朝から意外と込んでいた。普通のお風呂の他にジャクジー、サウナ、水風呂などがある。窓の外の時たま雲に遮られる日の光に目を細めながら、のんびりした時間を過ごす。
僕がアミューズメントのある温泉施設があまり好きでないのは、のんびりした雰囲気がないからだ。いわゆる温泉街にある外湯はゆっくりのんびり出来る。内風呂はサウナやジャグジーを備えており、案内によれば他に、薬湯と露天を備えた展望風呂があるらしい。ただ展望風呂の方は離れていて、移動するには着替えないとならない。
お湯は透明な塩化物泉で温度は適温だった。
それでものんびり過ごした後外に出ると、近くの辺りの木からであろうか、蝉が鳴いていた。そういえば、今年の夏は蝉の鳴き声をあまり聞かない。
(今日も暑くなりそうだな)という思いで車に乗った。

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参考:東御市観光協会/道の駅・みまき

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2005年07月18日 Posted by Le musicastre at 14:58Comments(4)東御

伝統の 歌舞伎楽しむ 町民ら

みどりの日、各地で様々な催し物が行われている。

我が町小諸では俳句大会が、隣の佐久市ではアースディin佐久が、善光寺さんお膝元長野では花フェスタ2005が、等々。
残念ながら私用で行く事は出来ないが、今日東御市で行われている東町歌舞伎に、私用の通りすがりに寄ってみた。

歌舞伎というと、どうしても敷居が高い気がするし、観る機会もない。梨園と呼ばれる閉ざされた世界は世襲で、僕たちの暮らす世界とはかけ離れたイメージがある。そんなイメージから関心も遠いものになってしまうが、それはその世界の事で、昔は一般庶民はそんな事に関係なく身近に楽しんだ芸能だろう。

東町歌舞伎の舞台は神社の裏手にある。舞台を底に半円形の斜面がある。もちろん枡席や座席などはない。僕が行った時は、見物の人たちがその斜面に思い思いの場所にシートを広げ座っていた。こうやって堅苦しくない場所で弁当を広げ、回りを気にする事なく笑ったり泣いたりして観る事が本来の芸能ではないかと思う。
もちろん最高の演劇や音楽を高いお金を払い見聴きするのもひとつだが、その一方でこういった楽しみ方もある。
芸術を楽しむのは色々なスタイルがあるし、自由だ。

長野県では他に大鹿歌舞伎が有名だが、地域に根ざした芸能を後世まで残していってもらいたいものだ。
  

2005年04月29日 Posted by Le musicastre at 14:30Comments(0)東御