陰緑に 朱色鮮やか 観音堂

お寺を見る事が特に趣味という訳ではないが、訪れた地に神社仏閣があると何故か行ってみたくなる。

昨日小海に行った時、町内に何かないかとナビで検索してみた。すると近間に『松源寺』というお寺があったので行ってみる事にした。



国道141号から左折、小海大橋を渡り相木川にそって数キロ行く。すると小さな集落があり、その小高い山の斜面に松源寺はあった。
予め携帯のWEBで調べてみたところ、佐久三十三番観音札所のひとつで、もともとは松原湖畔にあったものが、明治時代に移築されたらしい。
松原と松源、何となく名前が似通っているし、宿坊だか講堂には海岸院と名前がついていて、松原湖畔にあった事を想像させる。
なぜ海のないここに、小海、海尻、海の口という地名があるのか不思議に思うが、おそらく松原湖に由来するんじゃないだろうか。

駐車場から歩いて行くと、横から境内に入る。
左手に本堂へと上る長い階段があるが、本来はこの階段、右手の斜面から直線に上っていそうなものなのに、実際はクランクのようにずれている。
つまり、下からの階段を上りきるといったん右に折れ、数メートル進むと、左に境内が広がる。その先に本堂へ上る階段があるのだ。

境内は、お寺や神社にあるイメージのような、鬱蒼と茂る杉に囲まれたという雰囲気はなく、狭い割りに開放的な境内から見上げる空は広い。
階段の上にある本堂は、緑を背景にし、青い空の下にある。立派な趣で由緒もありそうだ。
実際、相木氏の祈願寺というから、武田信玄の時代からの寺なのだろう。ちなみに相木氏は、武田家に仕え、真田幸隆と共に、佐久攻略の一翼を担った、あの相木氏だと思う。



本堂から右手に行くと、六角形をした観音堂があった。
緑の中に、朱色が鮮やかだった。

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2008年09月18日 Posted by Le musicastre at 00:58Comments(1)小海

秩父事件 最終決戦の地で 振り返る

「小海まで行ってくれ」と、本社から電話が入る。
今あるガソリンの残量で、今日一日持たせようと思ったが、小海まで往復となるとちょっと足りない。
午前中は無理なので、デスクワークに充てようとしていた午後に行く事にする。滞っている事務処理は、また順延だ。

せっかく小海まで行くのだから、前々から関心のある『秩父事件』の戦死者の碑を参って行こうと思った。
小海は、秩父事件最後の決戦地となった場所なのである。
この事件は、明治政府に逆らった農民の『暴動』とされ、暴動を起こした者たちが悪とされた。



昔からの日本の歴史をみると、為政者に歯向かう者は、常に悪とされている。
能や歌舞伎の演目になっている、『土蜘蛛』や『鬼女紅葉』などがそうだ。
それに蝦夷や熊襲にしても、もともとそこに暮らす人たちを侵略しようとした朝廷に対して、抵抗した人たちを悪者に仕立て上げた。
現在でもそうだが、体制に属さないものは、全て悪なのである。

第二次世界大戦後、この事件は自由民権運動のひとつとして再評価されるが、罪のない巡査を見殺しにしたり、放火や窃盗もあったのは事実である。



明治政府の近代化政策、富国強兵の中で犠牲を強いられた農民が蜂起した秩父事件。
小泉、安部、福田内閣の下で、痛みを伴う改革を強いられ、困窮する国民。

約百二十年前に起きた『秩父事件』を、今の時代だからこそ、再び考えてみる事は重要だと思う。

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2008年09月17日 Posted by Le musicastre at 16:03Comments(0)小海